老後資金は本当に2000万円必要なのか? 定年後を生き抜くために必要なマインドセットとは?

定年

「安心して老後を迎えるには2000万円必要です」

2019年に金融庁が発表した報告書から当時の麻生金融担当大臣が「老後は生活資金として2000万円必要だ」というような発言をして社会でも問題になりました。まさに寝耳に水です。

その後、慌てた麻生大臣は自分の発言に知らんぷりして、金融庁の報告書の受取拒否までしたので記憶に残っている方も多いのではないでしょうか。

それ以前の2007年には、当時の安倍政権下で5,000万件を超える年金記録がなくなっていた問題が発覚して安倍政権は崩壊、自民党が政権を失うほどのショックを社会に与えました。

若い世代の人にはまだ遠い上にどうなるかもわからない年金の話ですが、ある程度の年齢になるとなると自分の老い先を考えた時にどうしても不安になるものです。

現役世代の憂鬱

サラリーマンにとって差し当たって気になるのは昇進と昇給ですが、50代ともなると「役職定年」やら「関連会社に出向」などの言葉が現実味を帯びてきます。

「オレの将来は一体どうなるのか?」「定年後も再雇用で働き続けるのか?」「年金はちゃんともらえるのか?」などなど不安は尽きません。

20〜30代の頃は「住まいは持ち家がいいのか、借家がいいのか?」などと悩んでマンションや家を購入した人もいるでしょう。

30数年前には「バブル崩壊」などと言われて不動産価格が暴落した時期もありましたが、今の現役世代にとっては遠い昔の”歴史”を聞いているようなものかもしれません。

現役世代が今の収入や支出、生活水準で老後の生活がどんなものなのかを想像することはなかなか難しいかもしれません。

例えば大企業に勤めて課長などの管理職であれば手取りの月収で30〜50万円くらいはあるでしょう。欲しいものは大して我慢もしないで手に入り、たまには旅行や外食もして週末にはドライブなんて生活が普通かもしれません。

大企業に勤めていなくてもちょっと我慢すれば、食うや食わずの生活で困窮しているという人はそんなに多くないのではないでしょうか。もちろん生活のためにのべつ幕無しバイトが欠かせない人がいることも承知の上です。

「ねんきん定期便」を見たことがありますか?

でも仮に歳をとって年金が支給される年齢になったとき、もらえる額はどれほどのものなのでしょう? 

「消えた年金問題」以来、日本年金機構から「ねんきん定期便」という通知が送られてくるようになりました。これを見ると将来もらえるであろう年金の額が書いてあります。

最初にこれを見たときには「こんな金額じゃとても生活できない!」とびっくりしたものです。それもそのはず、当時もらっていた手取所得の1/3くらいでした。

バブル景気が崩壊してから30年、あれから給料もほとんど上がらず、「失われた10年」が「失われた20年」になり、今では「失われた30年」になってしまいました。

政府は「所得が増えてます」と”やったやった詐欺”のように騒いでいますが、それは一部の大企業に勤めるほんの一部の”正社員”の話で、私の身の回りで給料が上がったという話は一つも聞きません。

耳にするのは「最近の値上がりは酷いよね」「卵なんて1パック300円近いもんね」なんて声ばかりです。これでどうやって将来に希望が持てるというのでしょうか?

本当に2000万円の貯蓄がないとダメなの?

意外と知らない定年後の年収

国税庁の「民間給与実態統計調査」によれば2019年の給与所得者の平均年収は436.4万円となっています。もちろんこれは正社員もパートもアルバイトも派遣社員も全部ひっくるめた給与所得者の”平均”です。

詳細を見ると20〜24歳の263.9万円から年齢を重ねるごとに右肩上がりで上昇してピークは50〜54歳の525万円ですが、多くの人が定年を迎える60歳から大きく減少します。

60〜64歳で410.7万円、65〜69歳では323.8万円、70歳以降では282.3万円まで減少します。これは2007年の統計と比較してもあまり変わっていません。

家を買っておいてよかった

次の表を見ると、持ち家を所有していることは人生の最終期において概ねいい選択になります。

なぜなら人生の最終期の住居費の割合は、総務省の報告書によれば、借家住まいだと月に平均5.1万円です。これが高齢期においては負担になるわけです。

もちろん持ち家といってもマンションなどでは共益費などがかかりますし、一戸建てでも修繕費はかかってくるわけですから持ち家だからといっても全くのタダというわけではありませんが、平均して約5万円、この負担は月々の支出の中では大きな負担です。

もちろん借家であればその時の状況に応じて住居を変えるという自由さもありますから、どちらがいいと一概には言えませんが、この時期にまとまった資産が手元にあるということは、これを担保にしたリバースモーゲージ(死ぬまではその家に住み続けられるが、死んだら金融機関のものになるという金融商品)を使うという選択肢も残るわけです。

ここで注意して見ていただきたいのが家計支出の総額です。

35歳までの平均39.6万円から定年前50代半ばの57.9万円をピークに(あくまでも全給与所得者の平均値です)、定年を迎える60〜64歳では43.6万円と急激にダウンしています。

ここではまだ若い働き盛りの頃にはかなりの負担になっていた教育関係費が子供の独立などで大きく削減されていることと、非消費支出(税金や保険料)が収入の減少とともに低減されるためです。

年金保険料も払う側から受け取る側になります。また持ち家の場合には住宅ローンが完済されていることが多いために、ここでも支出は大きく切り詰められてきます。

つまり若い現役世代の頃は、老後になっても今のような重い負担が生涯にわたって続くものと思い込みがちですが、多くの場合は定年を境にして収入は大きく減るものの、支出も低減されていることがわかります。

収入が多い時代にはそれに伴って支出も「払えるだけ使う」のですが、収入が減れば「払えないお金は使わない」というように変化していくわけです。

もちろん歳をとっていくつになっても「贅沢はしたい」とか「食べたいものは我慢しない」という方もいらっしゃるでしょう。

しかし高齢になれば多くの人は「欲しいものは大体手に入れて」しまって物欲も次第に減少し、体力の減少でカロリー消費は少なくなり代謝も減ってきます。

「美味しそうだけどちょっと(胃腸に)重たそうだなぁ」と感じて食べる量や質も、肉や脂は避けるようになったり甘いものも程々にして、「好きなものをちょっとだけ」というように生活も変化してきます。

若かった現役世代には「質より量」だったものがいつの間にか「量より質」になるので、30〜40代の頃のように食費が右肩上がりということもなくなり、ほぼ横ばいかやや減少する傾向に変わってきます。

これには子育ての時期には家族も増え子供の成長に伴って食費が増加していくのも大きな要因でしょう。しかし、やがて子供が成人して独り立ちすると、食費は次第に横ばいになり、それ以上は増えなくなるのです。

また、老後の不安への要因として現在の年金制度への不信感があります。少子高齢化が続く日本ではニュースなどでも、多くの高齢者を少ない現役世代が支えなければいけないと不安を煽るような発言が多く聞かれます。

確かに2000年の法律改正で年金支給開始年齢は60歳から65歳に引き上げられました。これを目の当たりにしてしまうと、「自分が年金をもらえる歳になる頃には、さらに支給開始年齢が引き上げられて永遠に年金が受け取れないんじゃないか」と不安になる気持ちもわかります。

政府も年金支給開始を少しでも遅くしてもらうために、支給を遅らせた人には生涯にわたって支給額を増額するインセンティブを与えて対応に躍起になっています。

もちろんこれは現在の年金制度を維持するためですが、人は何歳まで生きるのか自分ではわかりませんから支給を遅らせたはいいけれど、早くに死んでしまえば生涯にもらえる年金額は減り「損をする」ことになってしまいます。

それでも70歳まで支給開始を遅らせないと年金財政は破綻してしまいますから政府も必死です。

また、多くの企業の定年制度と年金支給開始との間の”空白期間”をどうするのかという問題は、支給開始を5年遅らせた時と同様に問題になります。

前回の支給開始を遅らせたときに政府は、「定年になっても65歳までは何とか雇い続ける方法を考えてね」と企業にお願いして2021年には法改正によって65歳までの雇用が義務化されました。

また70歳までの就業機会も努力義務とされていますから、これは年金の支給開始を70歳からにするための布石にも見えます。

さらに年金保険料給付額はこの18年間で23,000円/月減額されました。それでも年金給付に現役世代の労働人口が減少が上回っている現状は変わりません。

昭和の「バブル崩壊」から景気も停滞して法人税収は頭打ち、現役世代の所得は上がらず所得税収も伸び悩んでいますが、これは30年も有効な対策を打てなかった政府の無策も関係しているでしょう。それでも私たちの老後は刻一刻と近づいてきます。

まだ見ぬ老後の生活と支出の偽らざる事実

人生100年時代

「人生100年時代」と言われて久しいですが、100歳近くまで生きる人が増えたところで、死ぬその日まで働ける人はそう多くはありません。

いや逆に死ぬまで汗水垂らして働くことを多くの人は望んでいないと思います。

私たちが子供の頃にはまだ少子化にはなっていませんでしたから、「定年になったら年金暮らしで悠々自適」なんだと思っていましたし、それだけを一縷の希望に社畜のようにこき使われても、「あと〇〇年でこんな生活は終わるんだ」と思って耐えてきました。

でもいざその年が近づくにつれてゴールはどんどんと先になってしまいました。そんなとき政府に「死ぬまで働いてください」なんて言われたらそれこそ死んでしまいたくなります。

私たち現役世代にとって”働くこと”とは、地位や名誉、高収入を求めてがむしゃらに突き進むものでした。それを脚や腰が痛くなって体力も落ちてきた今、このままずっと頑張り続ける覚悟はなかなかできません。

目はかすみ、身体はますます弱っていくのです。若い頃には思いもよらなかったことです。でも本当に100歳までがむしゃらに上を目指して必死で頑張り続けなければダメなのでしょうか。ここでもう一度、生涯の平均年収の分布を見てみましょう。

54〜56歳のピーク時には中央値で400万円あった所得も、65〜69歳で世帯平均が180万円、70〜75歳では170万円、75〜79歳では150万円です。

もちろん下位10%の36〜50万円/年ではかなり厳しい家計といえますが、平均的な世帯では年金の平均年収は80〜100万円です。ということは年額であと80万円稼ぐことができれば、贅沢はできなくても平均的な暮らしが営めそうです。

世帯年収で80万円ということは月額6.6万円です。現役の頃には「7万円以下の収入で生きていかれるわけないだろ」と悲観的に考えていましたが、実際の老後の暮らしではそんなに非現実的な数字ではないように見えます。

もちろん悠々自適でボーッと過ごしてばかりはいられません。ちょっとは収入を得る必要はありますが何10万円も稼がなくてもいいわけです。

つまり世帯で10万円くらい稼げれば、今のところ年金と合わせれば何とか暮らしていけるはずなんです。

もっとも地域差はありますから、六本木や赤坂の一等地で暮らすのは無理でしょう。でも高齢になってまでそんな土地にこだわり続ける必要もありません。

地位や名誉よりも大切なこと

高齢になれば現役世代のように俊敏にバリバリ動いて働くことも叶いません。だから収入だって多くは期待できません。

でもそれでもいいのではないでしょうか? 歳をとっても王侯貴族のような暮らしがしたいと思う方もいるでしょうが、蓄財があるならそんな暮らしを続けることも可能でしょうし否定はしません。ただ多くの人は50代で就労感が一変するといいます。

人は何のために働くのでしょうか?

それは経済的な安定のためです。ごく一部の生まれつきの大富豪を除けば、収入を得て食べていくために働くということは当たっていると思います。

でも働くことの意味はそれだけではありません。人は仕事をすることによって色々なものを手に入れます。

例えばそれは、人間関係であったり、専門性であったり、もちろん栄誉や社会的地位、収入であったりします。

また仕事をすることでワクワクする気持ちになったり温和な家庭生活を送ることも大きな目的になり得ます。現役の20代、30代の頃には”出世して昇給することがいちばんの目的”だったとしても、50代になる頃には変化が訪れます。

20代の頃には「新しい仕事」や「高い収入や栄誉」を求めたとしても、やや落ち着いた30代になると仕事へのモチベーションが次第に下がり始めるといいます。

もちろん30〜40代になっても”出世が命”という人も一定数はいますが、それよりも家庭、自分や家族の生活に価値を見出す人が増えてくるのです。それは結婚して家庭や子供を持つ人が増えるからかも知れません。ライフワークバランスを考え始めるのもこの頃です。

そして仕事へのモチベーションがいちばん下がるのが50代前半です。この歳になると出世街道の先も見え、高い収入や栄誉もたかが知れてきます。定年を前に「役職定年」などがあると企業が評価する自分の価値に疑問を持ち、「オレは何のために働いているのか」などと悩み始めるのです。

いずれにしても今までの仕事に疑問を持ち始めるということは、これからの自分自身の仕事や取り組み方に対しても新しい価値を見つけ出せる転機ともいうことができます。

例えば20代では「他者への貢献」や「体を動かすこと」などにはあまり魅力を感じていませんが、定年後の仕事、特に雇用延長期を過ぎた65歳以上の年代では「他者への貢献」はもとより「能力を発揮」することに仕事に向かうモチベーションの中で重きを置いていることがわかります。

マインドセットを変えること

今まで、現役時代には「当たり前のこと」だと思い込んで疑うこともしなかったものを、価値観を変えることよって自分にとって大切なものにすることができるときです。

仮に、人が羨むような素晴らしいキャリアを持つ人がいたとしても、その仕事が人の役に立たないものなら、その仕事は趣味の一環としての価値があったとしても仕事としての意味はないと思うのです。

逆に、誰からも見向きもされないような収入の低い些細な仕事でも、それが誰かの役に立っているのならそれは素晴らしい仕事だと言えるのです。

定年後の就業者の多くは「誰かの役に立ちたい」という若い時代にはあまり考えもしなかったことに意義を見出している傾向が強いといえます。

仕事を通じて小さいながらも社会に貢献し、誰かを喜ばせて幸せにすることに価値を見出せるようになるのです。それがひいては自分自身のマインドセットを変えることにつながっていくのではないでしょうか?

一方で「生活の調和」を求めようとすればライフワークバランスを保ちながら、生活のために必要な収入が得なければならないということも考えなければいけません。理想ばかりを追っていても霞を食べては生きていけないのです。

これは「仕事は生活のため」という価値観に近いでしょう。それは年齢に関係なくどの年代でも必要だと考えることです。

しかし、定年後の仕事(必ずしも雇われる必要はない)において「ワクワクする体験」や「体を動かすこと」(長い間、ホワイトカラーに従事してきた人には抵抗があるかも知れませんが)は、「高い収入や栄誉」を求めるような働き方とは無縁だということです。

例えば、「高い収入を得る」ことを目的にしてしまうなら「能力を発揮する」ことは目的を達成するための”手段”に過ぎなくなってしまい、自分の能力を発揮できているというワクワクや喜びを感じることができなくなってしまいます。

人生100年時代に必要な仕事に対するマインドセットとは、決して「高い収入や栄誉」を目的とはしていません。若い頃には誰しもこういった価値観を重要視する傾向にありますが、年齢を重ねるに従ってそういった考えの重要性は著しく下がります。

それが定年前の現役世代、特に40代後半ではまだ気づかないことが多いのです。

企業内で熾烈な出世競争をしても、結果的に勝ち残れるのはほんの一握りに過ぎません。大多数の人は途中のどこかでふるいにかけられて脱落していきます。

ただ現役時代には出世の階段から自分で手を引いてしまうのは精神的にも難しいのが現実です。

しかし定年を迎える頃になると個人を取り巻く状況が大きく変わり、自分の能力に限界を感じ、仕事の大きさも萎んでいくのを目の当たりにすると、今までの価値観を引きずって生きていくことが難しくなるのです。

そんな時に気づくのが、「自分の稼ぐべき収入の額」も急速に低下していくということです。もちろん、幾つになっても「儲けることは悪いことですか?」と言っている人にとっては納得できないことかも知れませんが、「そんなに稼いでどうするの?」ということに人生のどこで気づくのかということです。

お金も地位も名誉もあの世までは持っていけないのですから、自分がどこに向かっていけばいいのかがわからなくなってしまうのです。そんな時にふと気づくのが「生きる意味」です。

まとめ

こうした高齢者が目指す、「他者への貢献」や「生活との調和」、「仕事でのワクワク体験」を第一義に考えた仕事を、「富と名誉」を目的とした”大きな仕事”に対して「小さな仕事」と呼ぶことにしましょう。

定年後の余生(という言い方自体がもう現実離れしていますが)、生きがいを感じながらワクワクと生きがいを持って働くことは、仮に2000万円の蓄えがなくても、心の持ち方次第では可能です。

定年後の高齢者は「小さな仕事」を続けることで生活を保てばいいのです。もうスポーツカーに乗って若い女の子をドライブに誘う体力も気力もない、欲しい物もだいたい手に入れた後は本当の余生を楽しく、面白おかしく小さな仕事で過ごせばいいのです。

ただ人生100年とはいっても死んでしまうその日までワクワクしながら働ける人はごく一部です。それまでが楽しくても、本当に働けなくなってからの補償は年金しかありませんから、それから本当に最期を迎える日までの貯蓄は「小さい仕事」の中から少しずつ積み立てておくしかないでしょう。

たぶん月に10万円ではその貯蓄もできませんから、月に1〜2万円の貯金は必要かも知れません。でも2000万円に比べれば現実的な話だと思いませんか?

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